みかの思考墓地

サイコパス (?)の哲学日記です

サイコパスなりの視点の解釈2

自分は何者かってどう同定するかって本当に難しいと思うんですよ。

前に記事でも言いましたけどカテゴライズされて安心したい人間も居るでしょう それも良し。だから自分はこうだって理解する事もきっと安寧に繋がるのでしょう。(常々思うんですが自分は悩み、苦悩と共に生きる事は人生において必須だと思います。悩んでる人にそう伝えると大体怒られるんですけどね。なんで怒られるのか共感できないですが、なんとなく人間って同情や共感を求めている事は理解できるので自分のミスだとは理解しています。腑に落ちないですけど。)

 

話が逸れましたけど、自分とは何者か、という問いは一生なくしてはいけないもののような気がします。悩みなんて30になれば消えると言いますが、自分は消えないような気がします。二年前の自分もアホみたいな悩みを一生考えてました。それこそ30になれば消える、は感じた事を諦めや経験則という処理を施した結果を微分して0になる。そんな感覚なような気がします。

自分はそういう意味でとても敏感で感受性が強いので日常のどうでもいい疑問に常に支配されています。これだけ聞くとマジで病気っぽいんですけど、社会的生活は問題なく送れていますし、むしろ感情のコントロール(?)が上手なので(感情の振れ幅が小さいのかコントロールが上手いのかは不明)とても快適に生活しています。

不調でも不都合でも無いので僕のパーソナリティの一部でしかないなって思います。むしろ好都合?

 

でもそんな支配される状況がたまーーーに嫌になります。今の自分を形作ったものなので嫌いになりきれないですが、酒や恋愛で酔っ払って自分を見失ってる人間に憧れさえ感じます。感受性と共感性の豊かな人間の恋愛ってガチで世界が二転三転しておもろそうやな みたいなのは勝手に思ってます。だからきっと心のどこかでは寂しいのかな?って そんな自分も可愛いなって たまに思います。こんな感受性豊かなサイコパスっています?完全なサイコパスな方がいたら教えて欲しいです。

理解されたいという感情は一種の救いで、自分を赦されたいと言う感情に似ている気がします。そしてそれが気持ちの良いものであると言う事も理解ができます。だから僕自身誰かに理解されたい、強いていうなら自分を理解したい、と思っています。でも理解してしまったらそれまでで、移ろいゆく環境で自分を完全に理解する事は誰しもが試みて失敗してきた事だと思います。

何故人類が生まれてきて哲学が未だにあるかなんてのはこんな平凡な疑問な気がするんですよね。自分も理解できない人間がなぜ他人を求めるのか。答えを丸投げするor別の感情で支配してしまう みたいな一種の答えのような気がします。上辺の相互理解で気持ちが満たされるならそれはそれで幸せだし、僕自身はそれが苦手(共感が難しい)故に、それで幸せを享受できる才能があると理解しています。

きっとそれを享受できない人間って最近SNSのおかげかせいもあってか増えたんじゃないでしょうか?そんな人間は自分と向き合えばいい それが哲学になる 僕はそう思っています。

 

自分は何者か?他人に共感できない人間の持つ唯一の人生の道標のように僕は感じています。最近は特に。